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高畠華宵について
高畠華宵 略年譜

1888年(明治21年) 

4月6日

愛媛県北宇和郡宇和島町裡町(うらまち)4丁目上角に、小間物屋兼生糸仲介商を営む 高畠和三郎・チヨの第三子として生まれる。兄弟姉妹は全部で8人となる。
本名・幸吉。幼少期、母の影響から絵を描くことに興味を覚える。母からは女性の髪形・衣装などについて教えられる。就学前に描いた宇和島の祭礼のスケッチが残されている。

1894年(明治27年) 

  5歳 4月宇和島尋常小学校に入学。

1898年(明治31年) 

10歳 4月、宇和島尋常高等小学校に入学。

1902年(明治35年) 

13歳 3月、高等小学校卒業。上阪し、中之島の親戚宅に寄宿。

14歳 4月、新進花鳥画家・平井直水の門下に入門する。

    5月、師の大阪北野小松原への移転に従い、直水の住み込みの内弟子となる。

    7月、脚気にかかり一時 帰 省。秋に再び上阪し、中之島から直水宅へ通う。

       この頃から花鳥画家の平井直水の指導に飽きたらないものを感じるようになる。

     (華宵は人物画、風俗画に関心があった)

1903年(明治36年)

15歳 4月京都市立美術工芸学校に入学。教授陣には竹内栖鳳、山元春挙、菊池芳文。

      同窓生には村上華岳、榊原紫峰など。

1904年(明治37年)

16歳 9月、父・和三郎の死去により、画学校を中退して帰省。家督を相続した5歳年上の

        長兄・亀太郎と相談の上、最上阪して平井直水の画塾に戻ることになる。

        この頃から祇園の華やかな宵を愛し「花宵」と号する。

1905年(明治38年) 

16歳 4月、竹内栖鳳画塾へ通うか、京都市立美術工芸学校に再入学するかで迷う。

                  大阪聖保羅教会で洗礼を受ける。クリスチャンネームはパウロ。       

17歳  5月、京都市立美術工芸学校に再入学が認められる。同窓生に川路柳虹、小林和作、田中喜作。

     8月、夏休みの帰省。

      友人から借りたギリシャ美術の画集に感激、洋画に興味を抱くようになる。

      この頃、祇園の華やかな宵に魅了され「花宵」と号する。

    12月渡米・遊学の夢を亀太郎に伝えるが、反対される。

      

1906年(明治39年) 

18歳 7月、夏休みの帰省。実家には帰らず、親戚宅に寄宿。

     9月、学資援助を受けるため、遠縁の親戚 ・高畠久吾の養子となる。

                   関西美術院(浅井忠創設)に入学。和魂洋才を目指す。

   12月、心機一転を図り、上京。

1907年(明治40年)

19歳 4月、久留島武彦のお伽劇団に参加。巌谷小波・鏑木清方らと交流。

      このことが実家に知れ、絶縁状態となる。

    9月、徴兵検査のため帰省。12月、養父死亡。

1908年(明治41年) 

19歳 2月、不安定な生活ぶりや素行をとがめられ、養子縁組解消。

20歳  5月、兄より餞別20銭を貰い京都へ向う。

    9月、再び東京へ。しかしお伽劇団も解散し、行く当てのない まま木賃宿「箱船屋」に

                  身を寄せ、肉体労働に従事。苦難の日々が続く。

1909年(明治42年) 

20歳 1月、豊田兼吉(彫刻家・東京美術学校教授)の書生となる。

21歳 5月、天籟画塾(寺崎広業画塾)に入塾するが、資金不足で半年程度で中断。

      再び木賃宿で生活するようになる。

1910年(明治43年) 

22歳 神田神保町の救世労働宿舎で生活しながら、絵の修業に励む。

    杉山寿栄男(図案家、帝国大学考古学講師)と知り合い、彼の紹介で山田傘店や

    小西六カメラ、中規模商店などの図案意匠の仕事を得る。

          また杉山を通して津倉順天堂の越山友之を知る、。雅号を「華宵」へと変更。

1911年(明治44年) 

23歳 津村順天堂の「中将湯」広告を手掛け始める(昭和初期ころまで)。

    神田小石川町から麹町区飯田町へ転居。

1912年(明治45年/大正元年)

24歳 業界紙『薬業之友』のコマ絵を描き、これがきっかけで講談社社長野間清治を知る。

1913年(大正2年)

24歳 3月、『講談倶楽部』(講談社)3月号に「新作浪花節逆賊ネロ」の挿絵を描く(挿絵デビュー)。

25歳 4月、同誌4月号からは、華宵の名が誌面に掲載されるようになり、以後次第に人気となる。

   6月、同誌6月の増刊号「浪花節十八番」では、表紙・口絵から挿絵まで一冊全てが

   華宵の絵だけで構成される。この頃、小石川区諏訪町に転居。

1914年(大正3年)

26歳 『少年倶楽部』(講談社)に挿絵執筆開始。

1916年(大正5年)

28歳 『面白倶楽部』(講談社)に挿絵執筆開始。

   この頃から、弟子を取るようになり、常時2~4人程度の弟子を同居させるようになる。

1917年(大正6年)

29歳 この年から翌年にかけて、中央新聞連載の複数の新聞小説に挿絵を描く。

1919年(大正8年)

31歳 浅草オペラや活動写真に興味を持つ。弟・実死亡。

1920年(大正9年)

32歳 『婦人倶楽部』『現代』(共に講談社)に挿絵執筆開始。小石川林町に転居。

   洋画の研究を始める。

1921年(大正10年)

33歳 西巣鴨町に転居。カメラに熱中する。

    大正の大ベストセラー『人肉の市』に挿絵執筆。他にもこの頃いくつかの単行本に挿絵を執筆。

1922年(大正11年)

34歳 『金の船』(キンノツノ社)に挿絵執筆開始。同居中の弟・義雄死亡。  

1923年(大正12年)

35歳 『少女画報』(東京社)『少女倶楽部』(講談社)に挿絵執筆開始。

   10月、関東大震災のため、千葉県飯岡海岸に一時移転。

1924年(大正13年)

36歳 6月、『婦女界』(婦女界社)に挿絵執筆開始。夏には飯岡海岸から西巣鴨に戻る。

    秋、講談社との間で画料問題がこじれる(「華宵事件」※)。

       ※「華宵事件」とは・・・

     華宵の原稿料だけが高いことに

     嫉妬した他の挿絵画家からの入れ知恵で、講談社(『少年倶楽部』の編集部)が原稿料の

     値下げを打診。華宵がこれを受け入れなかったため、『少年倶楽部』はじめ、講談社関連の

     挿絵の仕事を全て中断。その後、実業之日本社発行の雑誌(『日本少年』『少女の友』

     『婦人世界』など)へと活動の場を移した。華宵を失った『少年倶楽部』は一時的に読者が

     減少、一方の『日本少年』は購読者数が増加したという。一人の挿絵画家の影響力の

     大きさを物語る出来事である。

   12月、神奈川県鎌倉稲村ヶ崎一の谷のアトリエ兼自宅へ転居。

1925年(大正14年)

37歳 『少女の友』『婦人世界』(共に実業之日本社)『三越』(三越カタログ)『週間朝日』などに

   挿絵執筆開始。時事新報の新聞小説にも挿絵を執筆。 

   華宵便箋(便箋と封筒のセット)が発売(村田社、日出づる國社)され、大評判となる。その後

   大阪の五藤社、ベニバラ社などからも発売され、キャラクターグッズの先駆けとして人気となる。

1926年(大正15年/昭和元年)

38歳 『少女の友』(成海堂)に挿絵執筆開始。大阪朝日新聞に新聞小説の挿絵を描く。

1927年(昭和2年)

39歳 『世界文芸名作画譜』(一進堂)が刊行される。

1928年(昭和3年)

40歳 流行歌「銀座行進曲」(正岡容・詩)の中で、「・・・♫華宵好みの君もゆく」と歌われる。

1929年(昭和4年)

41歳 『華宵抒情画集』(全三編)『華宵愛吟詩画集』(共に資文堂)が刊行される。

    九州日々新聞の新聞小説に挿絵を執筆。

    『新作抒情美人画集』(真珠社/華宵が出資し弟子が運営する会社)を発行。

1930年(昭和5年)

41歳 1月、『主婦之友』(主婦之友社)に挿絵執筆開始。

1931年(昭和6年)

43歳 弟子の一人・加藤清一が「ベニバラ社」を設立し、華宵便箋を発売。以後華宵は弟子の会社に

    のみ便箋を執筆するようになる。

   4月、弟子一人(森武彦)だけを連れて、同じく鎌倉稲村ヶ崎のこじんまりとした家に引っ越す。

   この頃から雑誌や新聞の仕事を断るようになり、日本画制作を始める。

1932年(昭和7年)

44歳 11月、母・チヨ死亡。この年、母の見舞いと葬儀のため2度、帰郷。

   陸軍省発行の『恤兵』の付録として《武運を祈りて》《銃後の赤誠》を寄贈。

1934年(昭和9年)

46歳 北海道を旅行。札幌の丸井今井百貨店で「高畠華宵美人絵展覧会」を開催。

   鎌倉稲村ヶ崎一の谷の「華宵御殿」へ戻る。

1935年(昭和10年)

47歳 代表作《移り行く姿》(六曲一双屏風/明治・大正・昭和の女性風俗の移り変わりを、春夏秋冬

    の変化を背景に描いたもの。津村順天堂の二代目津村重舎の婚礼祝いとして描かれた)完成。

1936年(昭和11年)

48歳 上野松坂屋にて「挿絵画家展」が開催され出品する。

    北アルプス登山、紀伊半島など全国を旅行する。

1937年(昭和12年)

49歳 講談社と和解し、『少女倶楽部』『幼年倶楽部』に挿絵執筆開始。

1938年(昭和13年)

50歳 『少年倶楽部』に執筆開始。同誌連載の「源吾旅日記」は評判となった。

1944年(昭和19年)

56歳 弟子の井上充と養子縁組をし、華晃と名乗らせる。

1946年(昭和21年)

58歳 この頃から昭和30年初頭まで、小学館、偕成社、講談社、永晃社などの子ども向け絵本や

    名作全集などの単行本に挿絵を描く。

    講談社の絵本シリーズ「しあわせの王子」「小公女」など。

   『怪盗ルパン』(全5冊)『愛の妖精』『少女ネルの死』『アルプスの少年』『母の悲曲』など。

1947年(昭和22年)

59歳 7月、鳥取県米子市の百貨店いしかわにて「華宵新作美人画展」開催。

   12月、故郷・宇和島にて個展を開催(宇和島には帰省せず)。

1948年(昭和23年)

60歳 4月、愛媛県松山市の三越にて「高畠華宵画伯新作美人画展」を開催。

   『少女世界』(少女世界社)に挿絵執筆開始。

1951年(昭和26年)

63歳 東京タイムズに新聞小説を執筆。

1957年(昭和32年)

69歳 出版美術家連盟より挿絵への長年の貢献に対して表彰される。

1958年(昭和33年)

70歳 長年住み慣れた稲村ヶ崎の「華宵御殿」を手放し、材木座に転居。

1959年(昭和34年)

71歳 11月、米進駐軍や昔のファンの招きにより渡米(ハワイ)。一足先に肖像画の制作販売のため

   渡米していた養子華晃と合流。

   12月、曹洞寺院ホール(ホノルル)にて「高畠華宵・華晃合同展」開催。

1960年(昭和35年)

72歳 4月、ロサンゼルスに移動。画展を開催。高畠画学校を開設し、日本画の指導を行う。

   映画「マジョリティ・オブ・ワン」(ワーナーブラザーズ/アレック・ギネス主演)のセットに

   背景画(軸)を描く。

1961年(昭和36年)

73歳 7月、華晃の不慮の事故のため、華宵のみ帰国。

    この頃から数年間は生活が厳しくなり、 故郷の兄・亀太郎に援助を依頼する日が続く。

1964年(昭和39年)

76歳 8月、兄・亀太郎の計らいにより、兵庫県明石市の老人施設「明石愛老園」に入所。

   同園の牧師・宇都宮使徒宇治をはじめ周囲の支援により、再び日本画制作に取り組む。

   年末から翌年にかけて、愛老園のチャペルにキリスト三部作を描く。

1965年(昭和40年)

76歳 1月、明石天文科学館において「華宵名作回顧展」を開催。

   3月、オールドファンの一人で弁護士の鹿野琢見氏と知り合う。

77歳 4月、鹿野氏の招きにより上京。鹿野氏は自宅に「華宵の間」をつくり、華宵をもてなす。

   (これがのちの弥生美術館建設の発端となる)。

   7月には旧ファンの会「華宵会」発足。鹿野氏などファンの求めに応じて、日本画を描く。

   明石と東京を行き来する。

1966年(昭和41年)

77歳 1月3日、心筋梗塞のため東京大学病院に入院。

   1月4日から7日まで、上野松坂屋にて「華宵名作回顧展」開催。

78歳 4月、退院。5月、九州で下商店が開催される。

   7月9日、再入院。

   7月31日、逝去。同日付をもって勲五等双光旭日章をうける。挿絵画家としては初の叙勲。

   港区六本木の鳥居坂教会にて「挿絵葬」が営まれる。

   宇和島法円寺に埋骨、その後鎌倉霊園に移骨。

   11月、明石天文科学館にて「華宵を忍ぶ名作展」が開催される。

1984年(昭和59年)

6月、鹿野氏の自宅敷地内に華宵のコレクションを基とした弥生美術館が開館。

1988年(昭和63年)

「高畠華宵生誕100年展」(朝日新聞主催)が東京・大阪・松山・名古屋にて開催される。

1990年(平成2年)

10月、華宵の故郷愛媛県に親族が運営する私立美術館「高畠華宵大正ロマン館」(東温市)が開館。

   

 

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